1の愛情から
3.切迫
それは昼休みになってすぐのことだった。
「なあ。音瀬、ちょっといいか」
郁はゆっくりと顔を上げ、声の主を見た。
そこには昨日見た子供っぽい表情が抜け落ちた、真面目な表情をした悌也の顔があった。
真剣な眼差しに何事かと思い、その場で郁は二つ返事で頷いた。
昼食後郁は呼び出された特別棟の校舎の裏側に向かった。
特別教室ばかりが並ぶ校舎のため人があまり近寄らないのだが、
その裏ともなるとなかなか人の気配もなく、日よけとして生えている木のみ。
薄暗い人気のない場所指定に郁は多少不安を覚えながらいた。
「よぉ」
数分後、悌也がやってきた。
郁は暇を持て余しそうになっていたところだった。
「ごめん、遅くなったな」
「ううん。…話って、何?」
「…ああ」
明るい悌也に似つかわしくない歯切れの悪い物言いに郁は不思議そうに見た。
だが、元より面識のなかった二人に沈黙は辛く、緊張が流れる。
悌也の話は一つだけだった。昨日のこと。ただそれだけだった。
「身体、もう大丈夫なのか?」
だが、直接的にそれを訊くことは憚れた。
どんなことを言われるのだろうかと緊張していた郁は自分の身体の事で、少しほっとした様子で頷く。
「うん、もう大丈夫。心配してくれてありがと」
「そっか…」
「話は…それだけ?」
「……」
訊けばまた黙り込む悌也。一体どうしたというのだろう。
郁は引っ込んでいた不安が広がってきた。
俯いて何か考え込むような真剣な顔。
あまり教室内では見せない表情に郁は戸惑った。
どうしたものかと今度は郁が口を開こうとしたところ、
「お前。あの男とどういう関係なんだ」
「えっ?」
硬い表情をした悌也が顔を上げて、郁を眼差しで貫いた。
「俺見たんだよ。昨日音瀬の着替えと荷物を持って行って…そこで。
……そこで、お前が何をしてたのか」
悌也の声が耳から耳へと通り過ぎていく。
郁は自分の身体から血の気がさあっと引いていくのが感じられた。
“なに・・・?えっ・・・・・・”
いまいち悌也が言っていることが理解できない。いや、したくない。
顔面蒼白の郁を見、嘘は許さない。そういった響きを言に含ませて悌也は続けた。
「音瀬があの男に……って、待てって!」
聞きたくないっ。そんな話なんか…聞きたくないっ!
郁は次の言葉が怖くて聞きたくない、その一心で駆け出していた。
悌也の口から言葉が告げられ耳にする前に、その続きの言葉が届かない場所に行きたかった。
なのに。
「音瀬っ!!」
あっという間に校舎裏から出る前に郁は腕を悌也に掴まれ、引き戻された。
「イヤだっ!!」
「音瀬っ」
「イヤだ、放してくれ!聞きたくないっ」
「そういうわけにはいかないっ。あの男誰なんだよっ?」
逃げようと郁は何度も身を捩るが、難なく悌也に押さえ込まれる。
「誰なんだ?」
もう一度訊かれて肩を掴んで小さく揺さぶられる。
逃げを失った郁は居た堪れなくなって俯いた。
「…知らない」
弱々しく声を吐き出す郁。
「知らないんだ……だから。放してくれ」
あくまでも白々しく知らない、と一点張りする郁に悌也は身体がカッとなった。
「そんなわけねえだろうっ。何処に知らない男のなんか咥えるやつがいるんだよっ!」
「…!!」
郁はビクっと身体を揺らし、大きく、これ以上ないというくらい目を見開いて悌也を振り仰いだ。
知ってる…、知ってるんだ。流回にハッキリ見られたんだ…
「あ…っ」
その事実に言葉もなく、郁は目の前が一気に暗くなった気がした。
「…っ…」
悌也はしまった、という顔をした。
郁の表情が曇り、瞬時に顔を真っ赤にさせたことを後悔する。
あまり先を急がず、直接的に訊かないでおこうと思っていたのに。
つい言ってしまった。
しかし、悌也も何故?という疑問とどうしようっという焦燥感に、心臓がドクドクと鳴りっぱなしで困惑していた。
アレは無理やりやらされている、したくてやっているんじゃないっ。
と助けを求められればなんとかしてやろうと思っていた。
なのに、何も言わない郁にイライラとした。
そして愕然とする。
俺…こいつの力になろうとしてる…?
友人でも家族でもない、ましてやただのクラスメイトのために。
悌也は他人から慕われる者だったが、悌也自身はそうは思わなかった。
自分の損になるようなことは一切手を伸ばさないからだ。
自分と関係のある者にならそうではないのだが、知らない関係のない者には冷たい…。
そういう節があった。
でも。ただ、こいつが…音瀬が厭なことだと思ってるんなら、何とかしたいって思ってる…
今までの行動と正反対な気持ちに悌也は自分が分からなくなった。
郁の様子を窺えば、郁は梃子でも口を開かないでいようとしているのが見て取れた。
悌也はそんな様子の郁にゆっくり溜め息を吐いた。
頭が、心が、このあやふやな気持ちに気付くよりも前に、
「お前の力になりたいんだ」
悌也は思いを口に出していた。
その発した言葉にはっとして郁は悌也を見た。
どうしてそこまでするのか不思議で堪らない、といった風に。
郁こそ訊きたかった。何故だと。
しかし悌也自身もどうしてそんなことを口にしてしまったのかが分からない、とでもいう風にばつの悪そうな顔をしている。
郁はどうしてかそれを残念に思い、気を落とした。
「腕。放してくれ…」
先は断固として放さなかった悌也だったが、小さな声で弱々しい抵抗を見せる郁に思わず手を離してしまう。
その一瞬を逃さず、郁は悌也との距離を取る。
「ごめん、」
そのまま立ち去ろうと足を踏み出した時、
「待てよ」
強制ではないが、力のある声に郁は踏みとどまり、後ろを振り向かず少し沈黙をとった。
そして、一言
「にいさんだよ」
「え?」
「あれはにいさんなんだ…」
震える声を奮い立たせて言う。
「嘘だろう…?」
郁は何も言わずゆるゆると首を振ると、呆然と立ち尽くす悌也を残して、その場から逃げるように立ち去った。
続く
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短っ!!
二章に比べて半分もないですよ。この章。
まあ、ご愛嬌ということですかね?
今回でやっと中盤を迎えました。
’04 03 青川卓石
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