1の愛情から
プロローグ
「君、何してるの」
突然の声に、音瀬郁 は身体を大きく揺らした。
声を掛けられ、ある商品棚に伸ばしていた手が空を切った。
「ねえ、何をしているのかと訊いているんだよ」
男は再度呼び掛ける。
何をしているのか…それは男が答えを聞かなくとも郁に声を掛けた時点で彼自身が答えを持っていた。
マズイ≠ニいう考えが郁の頭をよぎる。
今逃げなければこの男に店へ突き出されるだろうことは容易に分かった。
肩へ伸びてきた手を避け、郁は駆け出す。
だが後数歩で店から出るというところ、襟首を掴まれた。
そして有無を言わせぬ力で駐車場へと連れて行かれる。
てっきりそのまま店主に引き出されるかと思っていた郁は、やや拍子抜けする。
しかし、そんな考えは甘かったのだと。
後になって厭 が応にも思わざるを得ない事態になるとは郁は知らなかった。
ただ店主に引き出さずこの男は自分をどうするのだろうかと思っていた。
男の顔はまだ見ていない。
えらく高級そうな車の前で立ち止まった途端郁は下を向いたからだ。
このまま地面と睨み合いをしてなんとかこの場を抜け出そうと算段していた。
その時、
「顔をあげなよ。郁君」
「!?」
名前を呼ばれ、郁は驚きに目を開く。
どうして、名前をっ?
見ず知らずの男に名前を知られている謂れはない。手にじっとりとした厭な汗が滲むのが分かった。
とにかく、逃げなければっ≠ニいう考えが再浮上してくる。何かがヤバイと郁の第六感が訴えている。
「どこに行くっていうんだ、郁」
知らず知らず後退していたらしい。
だがこの際、逃げの形を止められたからといって逃げるのを止めるわけにはいかない。
とにかく、怪し過ぎるのだこの男は。
郁は一気に走り出そうとした。
「待て。郁」
「ぅわっ!」
今度は腰から絡めとるようにして身体ごと男の腕の中に捕らわれる。
「なっ?」
そのまま車の中に押し込まれ、郁が車から降りるよりも早く男が反対側のシートに滑り込んできた。
「何なんだっ、あなた。人を勝手に車に乗せて…どういうつもりで」
「どういうつもりか、だって?」
「そうだよ。…それに、名前っ。見ず知らずのあんたなんかによばれる筋合いはないっ。降ろしてくれっ」
「分からないかな。君は私に弱みを握られたんだよ…、ねえ?音瀬
「なっ…!」
ゆっくりと振り向きざまに微笑まれ、郁は二の句が告げれなかった。
名前だけでなく苗字まで知っている。
男の不気味さに郁は声を上げれなかった。
そして男の微笑みは、
あまりにも綺麗で。
あまりにも怖い表情 で。
郁は逃げ出すことも忘れて、悪魔に魅入られたかのようにその場を動けずにいた。
1.出逢い
今朝の目覚めも最悪だった。
鏡を見なくともきっとひどい顔をしているのは分かった。
ここ最近いい目覚めで起きたことなんかなくなってきている。
これは新しく出来た家族との間にある、埋もれない溝からくるものなのだろうか。
特に義兄 との間にある不可思議で、不毛な逆らえない関係は誰に相談することも出来ず三ヶ月が経とうとしていた。
母と義父はその関係に気づいていないというよりも、気づけれるわけがなかった。
義兄は上手く事を行うし、今彼らはこの4LDKという大きな家に住んでいないから…。
例え彼らのような相談者がいたとしても、相談なんか出来やしない。
キュッ。
郁は洗面台から顔を上げ、タオルで濡れた顔を拭いた。
厭な思考を振り切り、拭き終わって濡れたタオルを首に巻きリビングへ戻ろうと振り返ると、
「おはよう、郁。朝食が出来てるよ、はやくおいで」
「義兄 さん…」
洗面所の入り口に壁際にもたれ掛かるようにして、義兄が郁を見ていた。
何かを見透かす観察者のような眼だと、直感的に郁は出会った時から感じていた。
「先に食べてるからな」
動かない郁に一言残し義兄はダイニングへ移動した。
それからきっかり、三十秒後に郁は重い足を動かしたのだった。
午前の授業が終わり、騒がしい昼休み。
ほとんどの生徒が育ち盛りの空いた腹を満たす為に食堂か購買部へと駆け出している。
流回悌也 は楽しいはずの昼食タイムにいまいち気分が乗れなかった。
原因は分かっているのだが、自分の力でどうこう出来るものではなかった故に、更に気分が落ちていく。
そんな辛い状況だった。
そこへ、
「おい。午後の体育バスケだってよ」
「マジ?持久じゃねえのかよ」
「おうっ。委員に聞いてみろよ、ほら。アイツ」
仲のいいクラスメイトからの報 せに悌也は声が弾む。
運動は苦手ではないが、持久力の求められる競技はあまり得意ではなかった。
だからこの朗報に午後の授業のことで、昼食が進まなかった腹が話を聞いた途端、威勢よく鳴り始めた。
「おいおい、お前単純だなあ〜」
げんきんな彼の腹の調子にクラスメイトは冷やかすような笑みを浮かべ、悌也をからかった。
「うるせえよ、素直だと言えっ。俺の心は身体と同じで正直なんだよ」
「へいへい」
悌也は机の上に置いてあったパンを掴み、軽くあしらう彼から離れた。その足で彼が顎で指したクラスの体育委員のもとへと向かった。
事がデマではなく本当であるという確証を得る為に。
窓際の一番前の席に座り一人で姿勢よく、昼食を取るわけでもなく、ぼうっと外を眺める彼の後姿。
何処か禁欲的で詰襟で綺麗に整えられた襟足は、時折暖房で吹く風によって柔らかく揺れていた。
触ったら気持ちのよさそうな猫っ毛だと思う。
悌也はそんなどうでもいいことを考えながら、さほど話したこともない彼の肩を叩いた。
「よう。飯食わねえの?」
「っ!」
突然のアプローチに肩を叩かれた本人は身体を揺らす。
数度長い睫 に縁取られた目を瞬 かせ、悌也の顔を見て安堵したような表情を多少浮かべた。
「流回・・・」
かなり驚かせてしまったらしい。
その表情に悌也は多少の罰の悪さを感じ、眉を寄せる。
「なんだよ、脅かさないでくれよ」
「悪い、音瀬。ちょっと確認したいことがあって」
音瀬と呼んだ彼は体育委員というむさ苦しいゴツいイメージからかけ離れた容姿をしていた。
男子校という悪環境の為、ただの潤いのような存在となっているが、女子がいれば絶対騒がれる対象となっていただろう。
そう思う悌也自信も整った男らしい顔立ちは、その対象となっていたに違いないが。
そんな音瀬とはあまり接点もなく、話す機会もなかった悌也は何故か彼の名前 を覚えていた。
普段他人の名前を覚えるのが苦手な悌也には珍しく、である。
確か、音瀬郁だった…よな
悌也は郁の許可を取り、隣の席を郁と向き合うように陣取った。
「あのさあ、今日の体育、バスケってほんと?持久走じゃなくて?」
「・・・そうだよ」
捲くし立てるように早口で言う悌也に、郁は勢いに圧されたように肯定する。
「本当のほんとに?」
「うん。本当のほんとに」
たっぷり二回の肯定を受けて、やっと悌也はほっとしたように大きく息を吐く。
「っあ〜…、よかった…俺嫌いなんだよ持久走って」
「へえ〜」
子供っぽく嫌いだと口にする悌也に郁は意外そうに頷いた。
郁から見れば、悌也は何でも出来そうな感じがしたからだ。
嫌いなものなどなく、なんなくクリアしてしまうような。
そう思ってしまったのは悌也がいつも明るく、クラスのムードメーカーになっているからだろうか。
明るく人を惹きつける雰囲気を持つ彼を郁は無意識に見つめていた。
「なんかまた宇梶先生の気まぐれが始まったみたいなんだ」
「マジっ?ったく、またあのじじいは気まぐれで授業内容変えやがって。
この前もいきなりの授業変更で準備してた用具使わなかったしなあ。
片付けるの大変だっただろ、お前」
「うん、まあ」
ころころ変わる表情と、言いたいことをバンバン言う悌也に郁は知らず笑みが浮かぶ。
「…まっ、でも今回は感謝だな」
そして、この発言につい郁は吹き出してしまった。
「なんだよ音瀬。何笑ってんだ」
「だって、…あはははっ。駄目だっ、可笑しい」
「おいっ」
一方的に笑われるのは面白くない。
悌也はいっこうに笑いを止めない郁に憮然とした面持ちでいた。
だが、郁にしてみれば、散々宇梶の悪口とも言えない不満を言っておいて最後にこの言葉だ。
本当に子供みたいなそんな素直さに耐えれなかったのだ。
「ああっ、もうっ。いいよ、ずっと笑ってろ。ったく」
小さく悪態をつき、悌也は置いたままだったパンの封を切ってかぶりついた。
それからものの三分後。
郁は悌也がパン一個を食べ終わる頃にく笑いが止まった。
これほど笑ったのは久し振りだろう。笑いすぎて肩が痛かった。
横目で悌也の様子を窺うとブスっとした様子で二個目のパンへと手を伸ばしているところだった。
これは笑いすぎたかな?と思い郁は素直に謝る。
「ごめん、流回」
「……」
謝る郁をじとーっと悌也は見る。
「…別にいいけど」
項垂れる郁に悌也はたっぷり時間を置いてから、言った。
それほど怒っているというわけではない。
ただのポーズだ。
いつも友達とはこれくらいの言い合いはする。
だからその延長で、郁相手にもしただけだった。
ただそれだけである。
別に困らせてやろうという魂胆はなかった。
しかし勝手の分からないように、此方の反応を気にする郁の様子に悌也は戸惑った。
「じゃ、数学のノートな」
「えっ?」
突然脈絡のない言葉に今度は郁が戸惑う。
「今度見せろよ」
「あっ」
にっと笑ってみせた悌也に今度は分かった。
ノートを見せることで笑いすぎたことを帳消しにしてやるという交換条件の一環だということを。
郁はその交換条件に応じるように笑った。
「わかった」
体育の授業は郁の言ったとおりバスケとなった。
二つのチームが対戦する紅白戦だ。
体育教師の宇梶は生徒を無造作にA〜Gまでの幾つかのチームに分けると、笛を鳴らした。
「よぉしいいかな。今日はこのそれぞれのチームメンバーで頑張ってもらう。
別に知らない仲じゃないだろう、仲良く楽しみなさい。じゃあAとGは1コート、BとFは2コートでプレイ始めっ。体育委員はそれぞれのコートの監督を頼むな」
宇梶はそう言うと、一人用意してあったパイプ椅子に座った。
今年で六十歳を迎える老体にはずっと立ちっぱなしはツラいそうだ。
仮にも体育教師なのだからある程度鍛えられているだろうに、と各コートに向かう生徒たちは心の中で呟いた。
試合をする生徒としない生徒が体育館内を歩く中、郁は言われたとおり、紅白戦の監督をする為に他の体育委員と共に笛と得点表を持ってコートに向かう。
途中、1コートで準備運動をしていた数人の生徒の中に悌也の姿を目の端に捉える。
二人一組になってストレッチをしているようだった。
悌也の相手は、彼が普段仲良くしている見覚えのある顔だった。
悌也は横を通りがかる郁に気がつくと手を振ってきた。
郁も手を振りたかったのだが、生憎と両手が塞がっており出来なかった。
代わりに軽く頷くように顔を傾けて悌也に答えた。
そのやり取りを見ていた悌也の前にいた生徒が目を丸くする。
「おい、悌也。さっきのなんだよ」
「なにって?挨拶だよ、あいさつ」
先まで大人しく一緒にストレッチをしていた友人が突然くってかかるように話しかけてき、悌也は少々面食らう。
「なんだよ、クラスメイトだからそれくらいするだろう?」
「はあ〜っ。分かってねえなあ、お前。相手は音瀬だぜ?他のヤツらなんかと比べるなよ」
「はあ?」
分かってない、と。首を横に振られ、悌也は首を捻る。
「だからよ。音瀬って綺麗な顔してるだろ?だから少し近寄りがたいけど、
お近づきになって少しは仲良くしたいっていうヤツは沢山いるわけよ。分かる?流回」
「……」
分かる、分からない。という問題ではなく、悌也は何か虚しい気持ちに襲われた。
そして、しつこくどうやって仲良くなったんだと聞いてくる友人に、前を向けと顎で促すその時、
誰かの強い視線を感じそちらへ頭をめぐらすと、先程郁と共に歩いていた体育委員の他の生徒が何か嫉妬の混じった羨望のようなきつい眼で悌也を睨んでいた。
悌也はそれらで合点がいったように頷いた。
「なあるほどね」
思えばこの学校は進学校で有名でもある、男子校だった。
確かに同じクラスになった時に郁の容姿には少なからず興味を覚えた。
女子がいないからといって男で代用をする輩もいたけれど、そこまで強い興味を惹かれたわけではなかった。
だが少なからず、悌也は何処かで音瀬郁という存在を気にしていたに違いない。
だから名前を覚えていた。
周りから羨まれる郁との友人関係の一歩手前に図らずとも進んでいた自分。
そこまで考えいたって悌也は滅多に見せない、人の悪いようなイタズラめいた笑みを見せた。
「俺ってもしかして、すごい事しちゃった…?」
すごい事も何も、悌也はこれからその郁と皆が羨むお友達関係を超えてしまうのだったが、
今はまだそのことには気付けれるはずもなかった。
すぐそばまで来ている運命の回転。
着実に動き始めていた。
続く
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うぷぷぷぷっ。
なにやら謎めいた(?)感じで始まっている
このオリジナル小説ですが・・・・、
一体この後どうなるのやら。
最後までお付き合いしてくだされば幸いです。
’04 03 青川卓石
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